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藤本寿徳

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理想郷
古き良き日本をイメージするとしたら、僕の場合、自然と共にある農村のような暮らしをイメージする。
自分の原風景がそんな感じだった。

でもちょっと可笑しくて、住んでいたのは最高裁判所のコンペで一等となり独立したての岡田新一がマスタープランや設計をした社宅+研究所というモダンな環境。(I期〜III期工事の1970〜2年の仕事,
岡田さん44歳今の僕と同じ歳の仕事)親は会社員だった。

研究所はRC打ち放しばかり、それを畑や田んぼや山が取り囲むという環境だった。
モダンとローカルが本当に共存していた。

日本各地で育って、入社した後になってこの環境にはじめて来た大人達とは違って、子供達にとっては世界の全てだった。小学校までの途中の田んぼや山、川が遊び場だった。

岡田新一のSDの作品集のクレジットには進行中の計画として「出光平川理想郷」というプロジェクト名で巻末に小さく紹介されている。今思えば本当にユートピアだったのかもしれないと、今はじめて思った。

理想郷と思うか否かは意見もいろいろあるだろうが、岡田新一は本当に理想郷を目指して設計していたのだと思う。設計をしている自分からみて、建築家がそんな恥ずかしいネーミングをするなんてよっぽどだから、(当時の時代背景だったら、メタボリなどあり得たのかも)真剣だったと思う。
それを建築をやってる自分が、「そうだった」と言うのだから、「設計時の思い」はうまく継承されているのではないか。岡田さんはそういう意味で良い仕事をしてくれたのだと思う。

ちなみに岡田さんは岡山県で多く設計や都市計画を手がけていて三原市でも都市計画をしている。

写真は、話題にしている千葉県袖ケ浦市の小学生のころ住んでいた場所。
写真の中央のあたりが社宅、下に小学校が見える。現在でも田畑が多いように見えるが、35年前はもっと田舎だった。

豚舎や牛舎のにおいなんか、「ブタとおっちゃん」の写真を見ただけですぐに思い出せる。


写真を見てると面白い。小さな山ごとに神社がある。子供時分はそんなこと気にしないかった。今郷土史やこの共同体の歴史を改めて調べたら、たくさんのことを知るのだと思う。豊かさが詰まった宝の山だ。

hirakawa
10:47, Monday, Feb 14, 2011 ¦ 固定リンク

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