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一つ前の投稿にある集合住宅の課題なのだが、毎年同じ敷地を課題に当てているので、ここ数年分あわせると300案以上の提出案をみていることになる。敷地は4階建ての市営住宅が実際に建っている土地であり、全国的にも一般的な敷地である。
ずっと気になっていることがあるのだが、学生が提出する案に戸建ての案が多いということ。 80戸が入る集合住宅の課題である。解き方として、低層、中層、高層と大きくいったら3タイプを選択することになるのだが、低層と呼べないような、小さな80軒の戸建てが密集した案に出会うことが多い。また魅力的な案もそのグループに多いのも事実である。集合住宅ではなく戸建てだよねとつっこみを入れる事になるのだが。
学生に対してはデザインだけでなく、社会的な視点から考えるように促しているつもりであるが、しかし出てくるものは戸建ての案。このことについて考えてみると、彼らの世代の感覚、またローカルな出身地が多いであろう学生にとっては素直な案なのかもしれないと考えるようになった。
学生は格好いいものをつくりたいというデザイン欲が旺盛でメディア(流行)からの影響もダイレクトに受けるものだから、現実を無視してデザイン的に面白くまとまりやすい方向に、課題を安直にすり替えているのかと考えていた。しかし実際に、彼らの中に中〜高層のスケールの中に身を置く感覚はないのだろうと思う。実際自分が住むことを考えて設計しろと口うるさく指導しているのだけれども、自分に向かえば向かうほど、戸建て的なヒューマンスケールを選択するのだろう。学生の課題には、無意識的にも制作者の生活への実感が滲み出てくるものだと思っている。まじめに考えれば考えるほど、戸建てのスケールに向かうのかもしれない。
森山邸は、食事や余暇の過し方を都市に依存し個人と都市の境界があいまいになった都市生活者の集合住宅という特殊解だと思っていたのだが、地方で生まれ育った人間にとっても、ありうる身体感覚なのかもしれない。街造りの視点で大きな空間のゆとりを街につくることよりも、個人の周りにある小さなゆとりが優先して考えられている。平等な関係性と集落的な魅力が同居している。
今年の集中演習で隣家との配置や向きだけで戸建て群をまとめた案があって、単なる配置だけを考えた案でもあるのだが、一軒一軒の間に生まれる適度な緊張感が魅力的であった。一階の住戸ではコートハウス形式、2階では隣家との間にできる空中コートハウスとテラスが設けられている。(一住戸の面積が狭かったり住戸内の魅力をつくることを放棄しているのは問題であるが) 80軒の戸建てを敷地にあてはめると、当然一軒一軒窮屈になる。窮屈であることを受け入れても、戸建ての魅力が勝るのだろう。その窮屈な隙間をデザインしていくことになるのだが、貧乏自慢のような貧相な都会の隙間と違った、広島ということでより広がりのある積極的な隙間がデザインできるといいだろう。
他者に対してオープンで平等な関係を結びダイレクトに街に繋がっている感覚が住空間にも適用される、ということが案に滲みでているということであれば共感できる。そもそも、地方都市に中〜高層の集合住宅が存在することの是非を考えてみる視点も大事だと思う。 |
09:23, Thursday, Jul 03, 2008 ¦ 固定リンク
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